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2008年6月17日

精力的な学習のススメ

諸君私は試験が好きだ
諸君私は 試験が好きだ
諸君 私は試験が大好きだ

文系科目が好きだ 理系科目が好きだ 芸能教科が好きだ 保健体育が好きだ
勉強が好きだ 数式が好きだ 積分が好きだ ラプラス変換が好きだ 回路方程式が好きだ

卓上で 教室で 図書館で 自室で トイレで 道中で 友人宅で 居間で 研究室で 寝室で
この地上で行われるありとあらゆる学習行為が大好きだ

卓上に並べたシャーペンの切っ先が落下とともに曲がって芯が出なくなるのが好きだ
広範囲の試験でヤマを外した時など心がおどる

教員の操る進級の合否が期待に胸膨らます僕たちを撃破するのが好きだ
悲鳴を上げて教員室の扉を叩きまくる友人を不可の一言でなぎ倒した時など胸がすくような気持ちだった

十分に学習した学生の表情が満点防止問題で蹂躙されるのが好きだ
恐慌状態の学生が 既に解き終えた問題を何度も何度も検算している様など感動すら思える

再試主義の逃げ腰学生たちを再試験ですら足りていないと吊るし上げていく様などはもうたまらない
泣き叫ぶ留年生達が教員の振り下ろした紙一枚とともに
金切り声を上げて築き上げてきた価値観がばらばらと崩れていく様も最高だ

再試にかけた哀れな者達が 付け焼刃の知識で健気にも立ち上がってきたのを
過去に類を見ない新出問題でわずかな望みごと木っ端微塵に粉砕した時など絶頂すら覚える

たった一つの苦手教科に目茶苦茶にされるのが好きだ
必死に実現するはずだった進級が来年度に持ち越され僕達のささやかな希望が犯され殺されていく様はとてもとても悲しいものだ

学年とともに増える教科数に押し潰されて殲滅されるのが好きだ
試験前のレポート期日に追いまわされ眠たい目をこすりながら数多の教員室を這い回るのは屈辱の極みだ

諸君
僕は試験を地獄のような試験を望んでいる
諸君僕よりも成績の劣る学友諸君
君達は一体何を望んでいる?
更なる追再試を望むか?
情け容赦のない糞の様な試験を望むか?
教員知略の限りを尽くし学年三千人の一年を費やす嵐の様な課題を望むか?

「進級!! 進級!! 進級!!」

残念
すなわち留年だ

教員は満身の力をこめて今まさに振り下ろさんとする握り拳だ
だがこのクラスの底辺で数年もの間堪え続けてきた僕達に
ただの二週目の同学年ではもはや物足りない!!

大勢の留年を!!
一心不乱に留年を!!

僕らはわずかに数人に満たぬ出来損ないにすぎない
だが君達は一騎当千の古強者だと私は信仰している
ならば我らは君達と僕で見かけのインパクト数千と1人の出来損ないとなる

我々が必死に一夜漬けをしている最中に眠りこけている連中を叩き起こそう
机に答えを書き込んで教室から引きずり出し眼を開けさせ思い出させよう

連中に留年の味を思い出させてやる
連中に我々の言葉にならない叫びを思い出させてやる

天と地のはざまには奴らの哲学では思いもよらない事がある事を思い出させてやる

数人の出来損ないのカンニング行為で
試験を混乱に陥れてやる

「全カンニングペーパー展開」
「左手に書き込まれた公式読み取り開始」
「最後の試験会場より教員に見つかり別の部屋へ」
目標停学の過程における校長室入室!!

背後に位置する教員ふたり 状況を開始せよ

逝くぞ 諸君

あとがき

文章と語呂で書いたので他意はないです。

有名な少佐の言葉。参考元はHellsingの少佐の言葉

書き終わっていうのもなんだけど......局所局所が笑えない......

2008年6月28日

フリーゲーム論─懐古しつつ今を行くゲーム像─

目次

文章の規模が大きくなりすぎたので、多少でも読みやすいように目次とその説明を書いておきます。もしタイトルに興味があるのであれば、このまま読み進めていってください。

注意!ページ内リンク

  1. はじめに
    今回の趣旨
    注意事項
    今回考える際に除外する範囲など
    早めの謝辞と補完記事
    今回参考にさせていただいた記事
  2. 1章:あり方を見直し、優れた前例から学ぶ
    衰退の復習
    フリーゲームらしい、活気の定義
    前提の定義
    まずは個々の努力で改善
    改善例をツクールに学ぶ
  3. 2章:海外に目を向ける
    海外から学べそうなこと
    ゲームの楽しみ方の差
    日本の場合
    同人文化を加味した考察
    海外の場合
    MOD文化を加味した考察
    楽しみ方の差のまとめ
    上記を加味するとわかる差
  4. 3章:海外や過去の優れた点の融合を目指して
    いい点を加味して何が見えるか
    要点を紐解く
    まずは簡単に考える
    CardWirthに学べ
    シナリオの作成難易度が低いこと
    多くの人が参加できる例
    シーズとニーズが一致すること
    シーズを操作した例
    キャラクタに愛着が湧くこと
    値だけでない楽しみ方
    CardWirthが成せたこと
    みんなが作れ、遊べるゲームの姿
    海外に学べ
    フォーラムのメリット
    匿名性を取り払うこととは
    特徴ある開発者のスタンス
    ユーザ独自の遊びを認めること
    二つを経て見えるもの
    CWの失敗点から学べること
  5. 最終章:いくつかの提案
    最後に僕の考え
    ゲームを作ろう
    こんなゲームを作ってみよう
    フォーラムを作ろう
    日本にあったフォーラム
    共感した人たちができること
    第三者はいかに参加するか
    そして最後に開発者ができること
    引き時も大切かも知れない
  6. あとがき
    書き終わって、所感

はじめに

今回は前回の記事、フリーゲーム論─フリーゲームは衰退したのか─(以下『衰退について』)の終わりからの続きとなります。前回の記事を読んでいなくとも理解できるように書いていきますが、適時参照していただけるとありがたいです。内容は今の時代でウケるフリーゲームについての考察です。

前回の記事、『衰退について』では、文字通りフリゲは衰退したのかを考察しました。若干、人によっては、かなり強引な内容に感じられたかもしれませんが、僕にはあのような結論となりました。それでは、そこを踏まえたうえで、どのようなものが今後の人気を担う作品となるのでしょうか。

注意事項

今回の記事では、その人気により、製作者、コミュニティを巻き込んで成長するものについての考察ですが、個人的な好き嫌いや、不得意であるジャンルもあり、ニコニコ動画を無視するものとします。それとともに東方シリーズから意図的に学ぶことも避けようと思います。

その理由は、(東方については語弊がありますが)それらのコミュニティの盛り上がりは、クリエイトする土壌としては十分なものではあります。しかしながら、キャラクター性に依存する土壌はゲームのあり方としてはいかがなものか、と疑問に思うためです。僕の考えでは必要以上にニコニコに関与して、製作者の作るゲーム以上にコミュニティが活性化すると、ユーザは一人歩きを始め、本来のゲームが埋もれます。ですから予め強く主張したい事は、製作者の管理可能なゲームが、本質的に意図されたゲームであり、ユーザが補完する世界は同人活動でしかないことです。

早めの謝辞と補完記事

前回の記事には、自由遊戯黙示録での自由遊戯・紀元零年で、参考について詳しく指摘していただきました。僕自身勉強になりました。tacashiさんありがとうございます。今回はこちらでフリーゲームの特徴として挙げられている3つについて、引用させていただきながら、話を進めていこうと思います。

1章:あり方を見直し、優れた前例から学ぶ

前置きが長くなってしまったが、『衰退について』で長々と説明した、3章の本当に衰退はおきたのか(注意、別ページの中段に飛びます)を改善する方法に焦点を当てて話を進めていく。

さて、今日のフリーゲームで重要なことは、『買う』特性と『タダ』の特性を再び引き離すことである。フリーゲーム論─買うとタダの違いとは─、や、『衰退について』でも言及したが、要約すると『買う』特性は、強者に目が行く市場原理的なものがより強く働く。これは確かにいくつかの質の高いゲームを出すことになるが、その後を育てる要素が少ないし、何よりもこれは消費者主体の考え方である。製作者は常にご機嫌を伺いながら作品を作ることになるし、これは本来のフリーゲームのあり方からは異なっている。

『タダ』の特性とは、むしろ、そもそも市販品とは異なるものである、という意思の現れである。こちらのほうが自由に振舞えるゲームを作る土壌を育てる。だから僕は衰退の原因になった事象に順に挑んでいきたい。

手順としては、個々の努力で改善を図れる部分を最初に修正し、結果的に変質した単純な時間経過でおきて然るべき事を局所的に改善する。そしてあわよくば、予想外だった自然災害的な事をも修正、影響の低減ができれば、というプランであり、過程の上に過程を積み上げていっても信憑性に欠けるので、個々の改善方法以外は書かないでおく。もちろん理想論で終わらせるのではなく、いつもどおりに過去に習ったことから提案していきたい。

フリーゲームらしい、活気の定義

予め目標を設定しておかなければいけない。僕の意向は既に注意事項で現れているのだけれども、『衰退について』で述べたように、目指すものはゲームそのものの製作者のコミュニティを中心とした盛り上がりである。

ひとつの優秀な作品よりも、いくつもの光るところがある作品が望まれていることと考え、それが全体にとって利益になる事が、フリーゲームらしい、理想の活気と定義する。

まずは個々の努力で改善

個々の努力で改善を図れる事として定義したのは以下の二つ。

  • 時代にあわせた素材の欠乏
  • 増えない製作ツール

これは、視点を変えて捕らえ、製作ツールが悪いと僕は考えた。現状の開発支援ツールは、すべてRPGはRPGのフォーマットを差し上げます、ヴィジュアルノベルはその通りに、STGもSTGになるようにツールにより支援しましょう。しかし、素材は自分で調達してね。これが実情である。

確かにゲームを形作ることは、ゲームだけではなく、素材も重要な要素である。しかし、必要条件を増やせば、完成までの道のりは遠くなる。いくばかりかサポートしているものは幸いである。反対にSTGなどは悲惨だ。ゲーム性を新たに打ち出すためには難しいくらいに既に試行錯誤され、慣例のあり方に従った上で、もはや視覚、音響効果が大部分を担いつつあるからである。

上の定義で優秀な製作ツールはツクールシリーズだ。CGや効果音、(サンプルゲームによる)最低限のスクリプト、これらが整っている。そして一歩素材探しに踏み出せば、素材は多く見つけることが可能である。あえて挙げるとするならば、いい素材はさまざまなゲームで使い古されているか、埋もれてしまって見つけにくいか、だろう。

ただしこの問題を見逃してはいけない。なぜならば、大抵の素材はウェブ上にあるにもかかわらず、それを発見するまでの時間が膨大に必要なことと、そもそも存在しない可能性があるからだ。また、ほかのサイトのチュートリアルを見て理解するのも大変である。確かに吉里吉里にせよ、C++にせよ、大抵の実装方法はウェブ上に何らかの形で説明されているのだ。しかしそれを見つけ、理解することは容易ではないことは、わかっていただけるだろう。また、バージョンが違うたびの変更点も理解の妨げとなる。そういった問題においては、悪いケースとなるのが個人つくったチュートリアルをしばらく更新していないときである。それらに今よりも対応できない限り、本質的に解消されていない、そう考える(確かにニーズのあるものは情報も充実しているが、ゲームについてはこの限りではない)。だからこの段落の問題を、「1.検索の手間隙が膨大である」こととしてマークしておきたい。

これの改善をするということは、基本的にツクールと同じような環境を設けることだ。まずゲーム製作が可能なだけの素材を与え、技術を持たないものでもとりあえず完成できることである。一度完成にこぎつければ、企画倒れとならないだけの見通しとスケジュール力を養うことができる。だから吉里吉里などでは、テンプレートパックと称して、ホラー向き、学園もの向きのサウンドと背景、そしてスクリプトの穴埋めで完成できる状態で配布することにより、ある程度実現できるだろう。

2章:海外に目を向ける

次は海外から学ぼう。といっても僕は海外のフリーゲーム事情に詳しくない。ひとついえることは、日本のゲームと大分趣が違うことだ。また、国外のフリーゲームを知り、双方のコミュニケーションを図ろうとする国内の製作者は、海外に近い匂いを作品から放っている。『ナノスマイルズ』のゲームシステムなどが丁度それらしく感じた。

けれども今回は、作品のあり方には目を向けない。指摘したいのは、日本とは違った方向にアクティブなコミュニティのあり方である。これは国内とどう異なるか。ここは商用のゲームも交えて考える。

ゲームの楽しみ方の差

まず、ひとつの作品をやり終えたとしよう。あなたは存分にそのゲームを楽しみ、好きなキャラクターも何人も挙げることができる。このときにどういったアクションを起こしたくなるだろうか。

日本の場合

実際のところ、国内ではこの感情を、作者に連絡することは勿論だが、絵を描いたり、同人的なサイドストーリー補完が多いように見える。なぜこうなのかは知らないが、事実としてこういった傾向がある。これが小規模でおきたときにどうなるか。製作者がそれだけ堪能してくれたことを喜び、また他のユーザがそれに触れることとなる、を答えとする。

これは大規模になった時に少し変質する。勿論製作者は喜ぶ。他のユーザは以前にまして触れる機会が増す。そしてこの影響は、製作者に向けるものよりも、ユーザ同士の相互の交流が強まるのだ。僕が以前『インフレのバランス』でも軽く触れたが、興奮などの感情は、対数のように、受け取ったときの感動のインパクトが変わる。だから製作者の受ける興奮は、(感謝に当たる情報を受け続ける期間の差はあれど)ある一定の値に収束する。

このときユーザはゲームの感想を自分に向かってきたものとして捕らえないので、ひとつの感想や絵に対していちいち反応しない。興奮は限りなくゼロである。ただし大規模になったときは、ここで例としてあげよう、東方の同人のように、その話題性がユーザ同士を興奮させるのである。ただし注意しなければいけないことが、ゲームそのものがコミュニティによって高められるのではなく、ユーザ同士が補完しあい、満たされるという、注意事項として書いた、ゲームとコミュニティの乖離を引き起こす。この状態に至ってしまうと、本質的にゲームを押し上げている人は、ゲームが好きでたまらなく毎週プレイしてくれる人種のみとなる。

海外の場合

海外の場合は、どの程度の人たちが日本と同じような経過を辿り、楽しんでいるかはわからない。しかし決定的に異なるひとつの文化がある。それは、もう何度も論述する際に引用しているが、MODである。

存分にゲームを楽しみ、かつゲームのソースコードを理解する人たちは、そのゲームの作り変えや、独自パッチの開発を試みる。絵などで謝礼をせずに、ゲームの変更に従事する。各人に焦点を当てれば、それは開発者に対する一種の感謝かも知れないし、もっとよくできるという野心ある取り組みかもしれない。けれども僕が感じてやまないのは、そのゲームのシステムの縛りをあえて受けた上でなお、新たな世界観を作り出すその姿勢は、製作者への敬意にあふれていることである。本来これだけ技術のあるものは、時間さえ投資すれば自分のゲームを作ることが可能である場合が多い。それなのにひとつの他人のゲームの変更にのめり込むのは、そのゲームの中に自分の理想とするものを見出せたからではないだろうか。このMOD製作という行為は、製作者へのゲームを好きだという意思表示の(ゲームをひたすらプレイすることに並ぶ)最高峰の手段であるし、同時に自分のゲームを作り出すという新たな創作のステップでもある。

日本で商用含め、こういった事例が少ないことが非常に惜しく思われる。

楽しみ方の差のまとめ

(図示したほうが格段とわかりやすいのだが......)結局のところ、日本と海外は以下のような差が出てくる。

日本では、製作者は(海外と同じように)信念を持ってゲームを作っている。それを受けてコミュニティが活性化する。そしてコミュニティの創作物は、特にコミュニティを刺激し、コミュニティの中でマッシュアップされた作品が生まれる。

対して海外では、製作者は信念を持ってゲームを作る。それを受けてコミュニティが活性化する。これにより、いくばかりかの人が、製作者のゲームの開発理念に従ってMODを作成する。ゲームの選択肢が増えるので当たり前のようにコミュニティの遊びの幅が増える。マッシュアップは主にゲームを中心として行われる。

つまり何が言いたいのかというと、どちらかと言えば日本のマッシュアップは、ひとつの作品を元に、外部が勝手に(それもゲームではない形で)行っているのである。海外では、マッシュアップは一旦作品に(特に強調したいのはゲーム性に)帰結した後に、新たな作品となる。

日本の場合では、中心となる作品が損なわれると、それが化石となることである。日本人は流行が好き、というが、いつもそうなるころにはまた新たに魅力的な作品を見つけている。

海外では、最初の製作者を巻き込んで生まれ変わる(むしろ様々なケースを見る限り、巻き込まれたいように見える)。weblogでいうところのトラックバックの発想がある。気質的なものもあるだろうが、そういったものが『plasma pong』などに古めかしい作品を作り変えていくのだろう。

さてここで、注意事項では「製作者の管理可能なゲームが、本質的に意図されたゲームであり、ユーザが補完する世界は同人活動でしかない」と僕は告げている。今言ったことと、ダブルスタンダードに感じていたりはしないだろうか。

よく考えてもらいたい。最初の作品『A』から離れ、MOD『B』が製作されたとする。これは別のゲームとして捕らえればその通りであるが、作品の制約を受けた上でゲームが作成されるのであれば、『B=A'』である。製作者が予測していれば意識可能な範囲に置かれているという視点から、本質的に意図されたゲームと言えるだろう。

もうひとつの見方もできる。MOD『B』は、そのときにおいて新たなゲームであるので、製作者が増えて、ゲームも増えたという考えだ。この場合は、本質的に意図された『A』と『B』、2つのゲームが発生する。だから例として示した前者、後者どちらであっても、注意事項の例外とはならないだろう。

以上のことを踏まえて、ここでの要点は、「2.MODから何かを見出せないか」である。

3章:海外や過去の優れた点の融合を目指して

ここで、先ほどの補足記事からの引用である。

自主制作性
(大学生の小規模なグループによって製作された)
非営利目的
(主に技術的な修練や私的な余興を目的として製作された)
特徴的な流通体系
(記憶媒体を通して"人づて"に配布された。また、無償なため簡単に入手でき、誰でも自由に遊ぶことが出来た)

自由遊戯・紀元零年

3つのポイントでフリーゲームの特徴を挙げられている。この中の自主制作性が、ゲームを作るにあたって何よりも重要である。そしてここを「3.自主制作性」とマークしておこう。そしてここまでの要点は以下の通り。

  1. 検索の手間隙が膨大である
  2. MODから何かを見出せないか
  3. 自主制作性

さて、3つのマークを抑えたところで、今回の話の進ませ方は、若干事例が少ないかな、と思えなくもない。とはいっても、本来的に、国内外の差は変えがたい気質によるものが大きい。だから異論はトラックバックしてもらえると非常に助かるし、そこで僕が大きな見落としがない限りは、だいたい上記の通りであっていると考えている。また、勘違いしてもらいたくないのは、別に国内のあり方が駄目だ、けしからんと言っているわけではない。単なる懐古主義にとどまらずに、昔と今と、海外でマッシュアップを目指す、そういった弱者に負担のかからないネクストステップを目指すための、前回と今回の記事である。閑話休題。

要点を紐解く

上記の要点で、1と3は関連が深い。3を達成するためには、1の壁を乗り越える必要がある。しかし、3とは、考えるにゲームを作りたいと思って自分たちで作り上げる金銭の対価を求めない精神性である。だから3は既に達成されている場合が多く、むしろもっと追い風に乗せて完成までこぎつける、何らかの意欲を外部から湧かせられるのであれば、それが最適である。

1についての解答は、既にツクールを例に挙げて示している。つまりはそういうことであり、簡単なように見えて、実は各人のニーズを満たすためには非常に難しいものである。しかしそうとも限らない。ここで少しばかりヒントを出しておこう。逆の発想で、ニーズを満たす必要はあるのだろうか?もしかすると、ニーズを満たすために素材を用意するのではなく、目指す作品のためにはその素材を使用したくなるという、ある人Aのシーズを製作者のニーズと思わせることは不可能なのだろうか?

2、MODから何かを見出せないか、についても結論は後に控えるが、まあこう書くわけだからあるわけだ。もっとも、MODに限らず、海外のコミュニティ、フォーラムという存在や、有名な商用ゲームのMODに対するあり方から学ぶこともできるだろう。

今の今まで引張ってきたが、以上のように考え、僕の考えにかなり近似したゲームが既にある。それの在り方こそがこれからの時代でヒットすると、考えるゲームである。タイトルは皆さんも知っている『CardWirth』だ。

CardWirthに学べ

CardWirth(以下CW)がどれだけ凄いゲームかは、その時期のフリーゲームとして触れた人は簡単に想像できるだろう。今回は説明を抜きにして、要点に沿った範囲で魅力ある点を示そう。

シナリオの作成難易度が低いこと

CWは、最初にスタッフ製作のシナリオがエディタで展開可能な状態で数個付属してくる。これにより作り方がある程度わかるほか、音や画像まで入っているので、いきなりゲームを作り出すことができる。また、ゲームの関係上、画像にオリジナリティを発揮させる必要は無い事からの安心感がある。また、コンパイラを通じずに、即座に動作確認を行えるのも完成までの敷居を低くしている。欠点は、ゲームの性質上、作りこんだものほど、さまざまなパターンを記述しなければいけないことだろうか。結果は変わらずとも、リアリティあるキャラクタを演じさせるには、性格ごとに言葉を割り振らなければいけない。

サンプルシナリオが、出来のいい割に短いことも優れた点だ。これは、最初に与えられた、いわば平均的なシナリオの指標として、これくらい短くてもいいんだぜ、という前例を与える。そうするといきなり気張って、大作をつくろうなんて無茶なことをせずにすむ。

シーズとニーズが一致すること

前段の安心感はここと関係がある。それは、ゲームのオリジナリティはシナリオで魅せるために、素材にこだわらずに(むしろ素材は無個性なほど、らしさが出る)作成ができることだ。そのお陰で、製作者は更に肩の力を抜いて作成ができるようになる。

キャラクタに愛着が湧くこと

これはユーザ側のものであるが、このゲームはTRPGの流れを汲んでか、ステータスが表に出ないものとなっている。しかもキャラクタが成長しても、あまり強くならない事もある。しかし複数のシナリオをまたがり育ててきたキャラクタは、パラメータには現れない親近感が湧くことと、ゲームのシステム自体が、ガチガチの戦闘を求めていないので、そういった不出来なキャラクタを許容する特徴がある。

CardWirthが成せたこと

以上の点が、CWの魅力である。これらが土壌となった上で、製作にかかるコストが少なく、自由にシナリオを公開でき、それらが存分に関連性をもち、成功した例となった。シナリオ製作者は、一からゲームを完成させるわけではないものも、ゲームを作りたいとい衝動の何割かは担うであろう、表現したいシナリオのゲームを作る、という目標は達成できる。

CWは、一定数のシナリオ製作者を確保した後、本来の開発者の手を離れた。そして今でもシナリオ製作者達の開発は進んでいる。他の製作支援ツールであれば、外枠のみだが、CWは最初に著しい制限と、シナリオの方向性が定義されている。それに沿って数年たった今もなお、ゲームが作られるのは、長く楽しんでいるユーザは勿論のこと、開発者にとっても本望ではないだろうか。

海外に学べ

先ほどのMODで書いたあり方も重要なのだが、海外の魅力はフォーラムにあると考えている。これは、半分実名じみた、匿名性の低いものだったのが幸いなのだろう。

フォーラムのメリット

フォーラムは実装に手間がかかる点がある。しかし、ユーザの名前はすべて一意のものになり、メールアドレスがそれに対応している。日本でいう所のはてなに似た状況になり、すべての人は、自分の持つアカウントというバックグラウンドを危険に晒すことの無いように、最低限のマナーをもって接する。失いたくないものありきのコミュニティでは、突然沸いてきたものに対しては、そもそもの発言力を軽く見る。フォーラムとは、この世界にどれだけ長く生きているかでそれなりの価値が認められる、積み上げていくサービスである。

以上の特性により、製作者はフォーラムの中では、単に貶めるような発言から守られることになり、多くの人がゲームがより善くなるように支援してくれる環境が、野ざらしよりも整うこととなる。ただし、フォーラムが活性しているかどうかは、ユーザにすぐ見て取れるので、意欲のない開発者はユーザにも伝わり、淘汰される可能性もあるのだが。

特徴ある開発者のスタンス

例に挙げると適切なのは、NeverWinterNightsやTESシリーズ(Morrowind、Oblivion)のフォーラムなどで見られる一つの事象だ。

本来、MODはゲームの内部を覗き込み、作り変える行為に該当し、利用規約違反となる。しかしどうやら海外には、それを見て見ぬ振りをする風潮があるようだ。むしろその権利を認めている作品もある。こうして開発者が歩み寄るゲームには、開発者イチオシとMODに印が押された統合パックを、開発者側から紹介することもある。こんな風にオープンな場合は遊び倒したいユーザにとっては最高の環境だ。

これはなかなか面白い試みで、そして長いこと続いている。この開発者のバックがあることは、すなわちその世界観に即して、さらにゲームを深くしてくれるというお墨付きを与えられていることである。だから海外のゲームでは公式パッチは勿論のこと、その拡張も製品の一部として遊ばれる。

これはMOD製作の動きをより活発にさせるものもある。一番重要なのは開発者のあり方なのだが、フォーラムとMOD製作と三つ巴になることで、最初予想すらできないものが作られることもあるのだ。

二つを経て見えるもの

最初のCWが僕は国内で最も製作者の輪を大きくすることができた事例だと考えている。そして、CWに足りなかったと思うものは、後段のフォーラムと開発者のあり方である。

足りなかったというより、平凡でしかなかった。また、製作者は開発中止と無干渉を早い時期に決めている。上のあり方で考えるのであれば、もう少しゲームの全貌を強く出してもらいたかった。

それがCWのひとつの失敗につながる。開発者の指標が、ルールブック以上でなかったために、ゲームバランスの崩壊を誘うシナリオが出てきたことである。日本人のゲーマーは特に、キャラクターが強くなるための手段を簡単に選ぶ傾向がある。その結果つまらなくなることもあり、ただそれはユーザが望んだことでは無いときが多い。CWは、そういった(残念な言い方だが)善良にプレイするものにとっては、悪意に等しいゲームを判別する術が少なかったことだろう。これは、3つの定義の『1.検索の手間隙が膨大である』に引っかかることとなる。

ここまでで現状を打破するための僕の導出は終わった。違和感を感じた人は、きっと僕とは異なる答えを見つけられるだろうし、是非その考えを知りたい。反対に同意できた人は、是非これにのっとって何かを成して教えていただきたい。それは書き手として非常に嬉しいことだ。次の最終章では、僕のこれからの提案を書いていこう。

最終章:いくつかの提案

大分僕の考えも書いたので、さらに何かを提案することは特にないのだが、それでも最終章なので、それなりにまとめてから筆を置きたい。

ゲームを作ろう

まずは魅力あるエディタとシナリオと設定が必要だ。実際にこれだけを作ったとしても、それは十分すぎるくらいにゲームとなるだろう。ゲームを作ることが難しくて挫折するコンシューマのRPGツクール等もそうであり、無茶を言ってはいないと思える。ただしこれは、厳密な見方ではゲームではないとされている。SimsやSimCityは、メタゲームないしはシュミレーションでしかないともいわれている。今回はゲームとしてみなすが、こういった考えもあることを覚えておいてもらいたい。

エディタは、何でもできるプログラミング言語であるよりは、もっと簡単に作る必要がある。Hot Soupでも難しすぎる。言語使用を知らなくても、直感的に作れるUIが理想だろう。

付属するシナリオは、さまざまなタイプがあると良い。具体的には、短編、長編、サイドストーリなどの、物語に関するものなど、その世界のあり方を連想させるものなどだ。そしてその背景をより強固にするために、ゲームブックまでとはいわないが、設定的なものもあるといい。そして、このシナリオこそが、あなたの作るゲームなわけだから、下手をこかないように、十分に吟味して、ブランドとなりえる完成度を目指そう。

付属するスクリプトや音楽、画像はライセンスフリーをうたい、流用可、もしくは一次流用可が望ましい。

以上の点によりゲームができたはずだ。僕の例では、一貫するキャラクターなどがある前提なので、STGなどは同じ考えでは向かないだろう。考え方をチューンアップして、たとえばある敵キャラクターの動作に関するプログラムを配布するなど、若干の技術があるもののみに対象を絞ったほうが作りやすいかもしれない。

フォーラムを作ろう

ゲームができたところで、次はコミュニティの土壌作りである。(フォーラムに関連するものでは)日本ではWikiぐらいしか複数人の書き込みに耐えるサービスを見たことが無い。しかし最近は好きなものを絞ったSNSが多くなってきたので、違和感無く受け入れられる場合もあるだろうか。

海外とまったく同じではだめだろう。僕は完全なメールアカウント登録制にならない限りは、表に出す情報は、2chでのトリップに相当するものだけで十分であると考えている。重要なのは、一見すると悪意としか考えられない発言を、悪意なのかそれとも真摯な批判なのかを考えるに十分な情報である。

あなたがへまをするような作者でないのなら、フォーラムにたびたび発言することも必要だろう。人望ある製作者は、それだけで遊びたくなる動機となる。現にMMOやWebサービスが成功するかどうかは、その後のアフターケアや開発者ブログから想像がついた経験は無いだろうか。

共感した人たちができること

まずは自分のゲームを作ろう。好きなように作って、公開すれば、面白ければ何らかの反応が返ってくるだろう。気に入れば、さらにゲームを作り続けてもらいたい。そうして、余力ができてきたらたまには開発者の気に入りそうなゲームを作ってもらいたい。運がよければ統合パックに参加できるかもしれない。

絵の描けるもの、音の作れるものは素材を製作してくれると、さらに開発者たちの自由度は高くなる。CWは、後半の作品は最初のファミコンベースのつくりに比べると、劇のように魅せられる素材が多かった。初期の作品と後期の作品が違った仕上がりになるのは、 またひとつの歴史を最初から体感できることになり、それも楽しいのではないだろうか。

そして最後に開発者ができること

ここは先ほどの開発者認定の統合パックのお墨付きのほかに、それを踏まえてもうひとつ重要なことがある。この段階までに育ったコミュニティに満足するのもいいが、計画市場的なものを目指してもいいかもしれない。

開発者が統合パックを認めるということは、同時に開発者が何かしらの基準に応じて、シナリオなどを振り分けるということである。だから過剰に行うと、開発者が自分の王国を作ろうとしていると感じてしまう場合もあることを留意しよう。重要なのは、選ばれなかった作品がマイナスではなく、選ばれた作品が特にプラス、または開発者の意図にかなっている指標のようなものであることである。

それもあり、先ほどの海外のMODでは、開発者選別の統合パック以外に、ユーザ選別の人気ある統合パックもある。CWでたとえるならば、開発者の意図しないパックを当ててみると、それはスペースオペラであってもいいわけだし、開発者はそこに目くじらを立ててはいけない。

この最後のステージに来たのであれば、スペースオペラが開発の歴史を塗り替えてもいいだろう。製作者はついに幕引きとなる。後は一ユーザとして享受する側に回るのも素敵かもしれない。

あとがき

今回のフリーゲーム論、いかがだったでしょうか。残念なことに現状、これを一から作り上げることはただの理想論です。ただしこれは、前例のある理想論です。さらには大成はしなくとも、小規模に味のあるまとまりを見せているものはいくつもあります。

ノベルゲームでも、実際にリレーノベルゲームを作ってみると面白いかもしれません。最も、こういった多くの人数が絡む創作物は、寛容な人以外が参加した瞬間にあっという間に破綻するケースが多々ですが。

僕自身、提案をただの理想論では終わらせるつもりはありません。可能であれば15年以内に取り組めるように努力したいです。

まったく関係ないですが、ただ彷徨うだけのゲームがしたいなぁ。『ゆめにっき』も悪くないのですが、PSの『moon.』とか、フリーゲームの『soup』とか、そういったとめどないものがいいです。いつか作りたいな。

今回の記事は時間がそれほどかかりませんでした。それも一例に頼りながら文章を完成させた気があるからですが、MODのように、ソースコードの解析とかを認める流れがあれば、少しずつ変わってくるのかな、とも思っています。今回の内容で、少しでも肥やしになるところがあれば幸いです。それでは今回はこれで筆をおきます。ありがとうございました。

2009年3月 9日

フリーゲーム論─ゲーム論(1.ゲームの定義)─

文章の規模が大きくなりすぎたので、多少でも読みやすいように目次とその説明を書いておきます。もしタイトルに興味があるのであれば、このまま読み進めていってください。

注意!ページ内リンク

  1. はじめに
    簡単な文章の内容の説明と前提、参考文献
  2. 1章:CGameは全てゲームなのか
    ゲームを定義する際の導入部
    コスティキャンのゲーム論が定義するゲームと、その修正
    意志決定と目標――必須要素
    意志決定の解説
    障害物――必須要素
    障害物の解説
    資源管理――ゲームのアクセント
    資源管理の解説と修正
    ゲームトークン――必須要素
    ゲームトークンの解説
    情報――ゲームのアクセント
    情報の解説と修正
    ゲーム論の修正後
    修正を踏まえたまとめ
    コスティキャンがゲームに求めるストーリー論と、その修正
    コスティキャンのストーリー論
    ノベルゲームがゲームに属する視点
    物語は事後に語られる視点からのストーリー論
    TRPG主体であるが、第二のストーリー観
    コスティキャンのストーリー論に対する反論
    ノベルゲームはゲームではない
    反証
    ゲームブックは乱数の要素においてゲームである
    作品の軸の変更
    ノベルゲームの分解
    上記二つを踏まえた考察
    ゲームの再定義
    広義のゲーム
    今までのゲームの定義
    純ゲーム
    コスティキャンのゲーム論を拡張した厳密なゲームの定義
    ゲーム的創作物
    疑似ゲーム
    ゲームだと思われ遊ばれているもの
    ゲーム的遊戯
    快楽がゲームに似た遊び
  3. 結論と本着想の理由
    定義を経て、所感

はじめに

フリーゲームを考えていく最中で、そもそもゲームというものは何か、という壁に当たりました。僕達が受けてきたであろう経験では、コンピュータで行うコミュニケーションのみ以外のインタラクティブな娯楽要素が、多くの場面においてゲームである、として認識されてきたと考えています。重要視したいのは、厳密な意味でゲーム、非ゲームと呼ばれたとしても、あなたが母親、ゲームに対して無理解の人の目の前でプレイしたときに、ゲームとみなされる可能性が多分にあるのはなぜか、です。

ゲームを知る人、知らない人、ゲームについて独自の見識を持つ人、それぞれがどこから何処までがゲームであるかばらばらです。また、その理由も共通でないものです。僕は曖昧なゲーム観で各々がゲームをくくろうとするよりは、一度教科書的なゲームの枠組みを定義する必要があるのではないかと考えました。ベースはコスティキャンのゲーム論を用います。

今回、ゲームはコンピュータゲーム(以下CGame)、デジタルで遊ばれる フリーゲーム、商用ゲームを中心に考えます。ゲームブック、カード、ボードゲーム(ノベルゲームやWebブラウザのゲーム「汝は人狼なりや」、カタン等)はCGameの近似した作品で説明が可能です。ただし、洗練された分野であるTRPG等を含めると、ゲームとして考えていかなければいけない範囲が大きくなりすぎます。

CGameは万能ではなく、苦手な分野はちょうどTRPGのように、複数で動的に物語を構成するゲームです。TRPGはその場の雰囲気が重要であり、CGameで同じような環境を整えるには、最低でもWebカメラでお互いの表情を認識させ、環境に左右されることなくスムーズな会話を行う必要があります。ただし現状のCGameでは実現されていません。したがってTRPGが再現可能な範囲は、特に動的な物語の構成部分においてCGameを上回り、この点からCGameに内包されるフリーゲームを考えるのは望ましくありません。またCGameでは実現されていない概念を理解する必要があるために、TRPGは特殊な文脈を除いて含めないものとします。

今回はコスティキャンのゲーム論とそれに対して主に批判的な内容で書かれているhikaliの開発日誌 |  コスティキャンのゲーム論を読んでみる → あれ、あんまり問題ないかな?の追記以前を参考にしました。ただし、TRPG主体な考察もありますので、その点を差し引いて考慮して考えていきます。後半でノベルゲームについての考察を行いますが、その際にはAnalyses on Novel Gamesを参考にしました。

1章:CGameは全てゲームなのか

ここでは最初に参考記事として示した、コスティキャンのゲーム論と批判的な内容を持つもの合わせて2つを参考にする。全部読んでもらえれば幸いだが、コスティキャンのゲーム論は簡単に言って次のようなものである。コスティキャンのゲーム論は、どちらかといえばコンピュータゲームの視点から、TRPGやその他を説明したものである。公表媒体もあって、TRPGに独自の拡張を加えて説明の質を上げているが、その範囲をカバーし切れていない(その点の考察は2つ目の参考記事の中盤、ストーリーのあり方についてが参考になる)。また、現代のゲームを完全に説明することが出来ない欠点を持つ。

しかし、本記事ではTRPGはCGameから考えるゲームの範囲外にあるために関心を寄せないとしているので問題は無いだろう。次にコスティキャンのゲーム論を簡単に分解しよう。

コスティキャンのゲーム論が定義するゲームと、その修正

それではコスティキャンのゲーム論中に書かれた、ゲームに必要な要素についての解説を行う。その際に原文に当たらずに済むように、なるべく本記事内で説明するので、疑問がわかなければこのまま読みすすめていってかまわない。

コスティキャンがゲームとして定義するにあたり、次のように発言している。

それで「ゲーム」とは結局のところ何なのか?

ゲームとは、芸術の一形態であり、プレーヤーと呼ばれる参加者が目標達成を目指して、ゲームトークンを介して資源管理のため意志決定するものである。

以上の定義に伴って必要な要素は次の6項目であり、それぞれは等価ではない。

  • 意志決定
  • 目標
  • 障害物
  • 資源管理
  • ゲームトークン
  • 情報

意志決定と目標――必須要素

意思決定は全ての要であり、その他5つは意思決定を彩るための要素である。人は意思決定が楽しめれば十分に"遊べる"わけである(遊べない意思決定は仕事と言い換えてもいいのではないだろうか)。パターンを見出すまで楽しめたマルバツゲームを思い出してもらえればいいだろう。ただし、意思決定を煽るなにかがゲームになるためには、コスティキャンの論では目標が必要である。マルバツにせよ、将棋にせよ、相手に勝利するという目標を目指して、意思決定をすることでそれは初めてゲームとなる。

コスティキャンは製作者であるウィル・ライトと同じく、『シムシティ』はゲームではないとしている。それはシムシティから与えられる明確な目標がないためであり、この点においてシムシティは遊びの可能性を提供する玩具、球技のためのボールでしかない。詳しく知りたい方は「「ゲーム」は、玩具ではない」の項目を参照されたい。

障害物――必須要素

障害物については多分想像されている通りである。コスティキャンが強調しているのは、「ゲームにとって本質的に重要なのは「敵対」ではなく、目標に向かっての「努力」」であり、障害物は何らかの判断をプレイヤーに迫ることで、ゲームに不可欠な要素となる。加えて、ある程度のランダム性が意思決定の際の障害となりえる点も押える必要がある。

資源管理――ゲームのアクセント

資源管理について、2つ目の記事を参照された場合は注意しなければいけない。資源管理はあくまでも状況の一要素である点だ。例えば、将棋、囲碁ではコスティキャンの考える資源管理は無い。しかし、資源管理はゲームに必須ではなく、あくまでも「複雑な意思決定を保障する」ための指標である。この「複雑な意思決定を保障する」とは、一般的なユーザのレベルにおいて、と注釈をつける必要があるだろう。あなたの想像するいくつかのパラメータを用いるゲームについて、全ての数値が隠されていた場合はどうだろうか。魔法が使えるかどうかの確認に1ターン費やしたり、回復のタイミングが図れないかもしれないし、どれだけ内政を整えた後に攻撃へと転じればよいかもわからない。資源管理をユーザに強いるもしくは機会を与えるということ、資源の目的は、決定すべき事項を明確にするための要素だ。

もちろんこの資源管理は適当に行わせる必要がある。ノベルゲームでの分岐をわかりやすく示すならそれは攻略志向のUI(ユーザインターフェース)であるし、不要だと表示しないのであれば、画面が煩雑にならないで済むだろう。将棋や囲碁は、資源管理の機会を与えないために、多くのユーザは決定すべき事項がわからずに敗北する。念を押すが、資源管理はユーザが楽しむ機会を増やすための上げ底のシステムであることと、パラメータとして用いることで、ゲームのルールを厳密に適用させやすくする概念である。

ゲームトークン――必須要素

ゲームトークンはパラメータではなく、資源を管理するための手段である。例えばRPGのキャラクタが所持品を消費、STGでストックされたボムを使用することで効果を得ることを指す。大抵の場合はプレイヤーと密接に絡み合っているために、区別がつきにくいかもしれない。ゲームトークンは将棋、囲碁に存在する。駒、碁石であり、そして進行は駒、碁石の適切な操作一回を交互に行う一連の時間的変化を指す。詳しく知りたい方は「ゲームトークン」の項を参照されたい。

情報――ゲームのアクセント

情報については、資源ではないがプレイヤーの行動を決定する要素になる。情報の特徴は、システムにおいて適切な量の情報を与えるべきとしている。例えば魅力的なパラメータも、全く知る機会が無かったら無視されるであろうし、重要でないパラメータを定義して、画面上に列挙するのも優れたやり方ではない、とコスティキャンは説明している。詳しく知りたい方は「情報」の項を参照されたい。

ただし情報はコスティキャンの説明では的確ではないように思える。情報は適切な量の情報を与えるべきと書かれているが、本当にそうだろうか。コスティキャンの訳文では、「情報については過剰にならないほどに、ゲームで重要な全てを示すべきだ」と書かれているがそれは間違っている。現在、この情報の理解の仕方を問われる段階から始まるゲームは、例えばアンディーメンテから何作も出ていて、受け入れられているからである。

次に、僕の考えでは情報は資源管理と似た性質を持つ。なぜならば資源管理も前段で、情報と同じく全てを示す必要は無いであろうと(もしかすると僕が拡張したかもしれないが)定義されているからだ。ここで資源管理と情報は、異なる性質を示しながらも、ゲームにおける振る舞いは同様の範囲で干渉することなく求められることが示せたはずだ。

ゲーム論の修正後

まとめると、ゲームにはルールで定義された目標に向かうための意志決定が不可欠である。ゲームトークンもルールにプレイヤーの意志を反映させるために不可欠である。障害物も目標に向かう努力を発生させ、過程に吟味するだけの複数の判断を発生させる要因となり、それは不可欠のものである。また、アクセントとして、資源管理、情報の2つがある。これらは、ゲームのあり方を決める要素であり、それぞれが無くてもゲームとなり得る。

以上でコスティキャンがゲーム足ると定義する主要要素と、それに対する注釈と修正を終える。

コスティキャンがゲームに求めるストーリー論と、その修正

僕はフリーゲームといっても、恣意的にノベルゲームを選択する嫌いがある。それは僕のフリーゲーム経験はRPGやSTGも十分に遊んでいたが、ノベルゲームのしめる割合が大きすぎたためだと思っている。だから、僕はフリーゲーム論と銘打っても時にある特定ジャンルについて言及していたり、ノベルゲームのみだったりすることがある。今回はこれを認めたうえで、ノベルゲームをよりよく考えていくために、コスティキャンがゲームに求めるストーリー論にも触れておく必要があるだろう。参照元では「「ゲーム」は、ストーリーではない」がそれにあたる。2つ目の参照元では「ストーリーとゲーム」でコスティキャンとは違った考えを示している。2つとも必要を感じることがあれば参照してもらいたい。

コスティキャンのストーリー論

コスティキャンの要点は次の2つの段落からなる。

ストーリーはもともと直線的であり、それによって最高のものとなる。直線的とは、作者(TRPG論ではないのでゲームマスターとは書かないでおこう)が計算しつくしたとおりに魅せることである。ただし、ゲームはストーリーとは異なるもので、直線的なものになる、ストーリーに近づくほどゲームとは異なるものとなる。

ハイパーテキスト(読者の選択によってプロットや結末が変わるインタラクティブ小説、アドベンチャーゲームブック)は本質的に直線的ではない。したがって、従来の小説作法はハイパーテキストを作るうえでは役に立たない。この手法で文学的な高みに達したときには、何か別のものを生み出すだろう。また、本質的に直線的で無いがゆえに、ハイパーテキストはゲームに近づく。

コスティキャンの考えでは、現在のノベルゲームはゲームとなるだけの要因を持つと見ている。また、分岐したシナリオを持たない和製RPGは等しくゲームではない、といっているに等しい。僕の視点からは、シリーズ物はゲームではなくそのグラフィックとシナリオからユーザをひきつけているように思える。映画的とも言い換えられるだろう。

物語は事後に語られる視点からのストーリー論

2つ目の参照元ではどのように考えているのだろうか。結論を先に言うと、こちらはTRPG主体で、主張する概念は他の媒体においては達成できていない。しかし十分に考慮するだけの魅力があるので簡単に説明する。ゲームのストーリーを考えるにあたり、このストーリー観が参考になるからだ。

まず最初に氏の定義を示す。

ゲームトークンの初期配置+事後的に開示される情報+事後に登場するゲームトークン =シナリオ

シナリオをプレイした結果生まれるもの = 物語

ここでの物語はストーリーを指す。ストーリーの概念がコスティキャンと異なる。ストーリーは道のりから発生するものであって、最初から予想されたとおりのものではない、ということである。もちろんこれは、先にストーリーの書かれた小説では不可能な話である。ストーリーはリアルタイムで展開された結果であることをうかがわせる。

また、コスティキャンのハイパーテキストに寄せる期待とは事なり、初期値に応じて物語が自立的に発展するのではないか、と氏は考えている。コスティキャンが最も美しいストーリーを計算され尽くしたもの、と考えているのに対し、こちらは予想外のことが起きて最も美しくなる可能性を持つ、と考えている。

コスティキャンのストーリー論に対する反論

さて、ここからがノベルゲームについての本題。コスティキャンと3つ目の参考記事「Analyses on Novel Games」について考える。ノベルゲームは、"ノベルゲーム"としてジャンルを確立していることは認められるが、果たしてそれは本当にゲームなのだろうか。

再度書くことはしないが、コスティキャンはノベルゲームがハイパーテキストによってゲームであることを示唆している。前提が正しい限りにおいてはそうなのだが、僕はコスティキャンの次の考えが、2つほど誤っているように思える。1つは、「ハイパーテキストは本質的に直線的でない」の部分である。コスティキャンは上の言葉のみで、どのような考えに基づいて、本質的に直接的でないかを示していない。2つは、アドベンチャーゲームブックはハイパーテキストであり、それが故にゲーム的である、と書いている。

ノベルゲームはゲームではない

1つ目について考える。「ハイパーテキストは本質的に直線的でない」と言うことは、訳文の文脈では、「作者が効果を計算した上で、全てが予定通りに行われるわけではない」ことで「意志決定を行い、それを反映できるだけの可能性を持ったテキスト」であり、それは同時に「従来のテキストと事なり多元である」ことを示す。コスティキャンは、自分で定義した前提の1番目、「作者が効果を計算した上で、全てが予定通りに行われるわけではない」を忘れている。如何にシナリオが分岐しようが、はじめに作者が記述した文章をなぞっていく事は、そのストーリーごとにおいて直線的である。意志決定は全て作者が用意した選択肢の中から、好みであるものを判断することであり、それはTRPGでGM(ゲームマスター)がプレイヤーに選択を迫るプロセスとは似て異なる。

現状のノベルゲームとは、提供された全ての選択肢は枯れた植物の根と同じであり、自立的に発展することはもはや無い。「ハイパーテキストは本質的に直線的でない」のに対し、「ノベルゲームは擬似的に可能性(直線的でないような振る舞い)を装う」だけであり、ノベルゲームはコスティキャンの論において、ゲームとは言い難いだろう。

むしろノベルゲームは、作品をプレイヤーに見せるための一つの手法であると考えられる。本来、小説では可能性を分岐的に示すことはできない。しかし、選択肢を加えることで、世界観、キャラクタをより重厚に表現したり、それぞれのシナリオの整合性を取らせないことで今までにない表現を行うことができる。また、泣きゲーと呼ばれるKey作品などは、攻略後のヒロインが別のヒロイン攻略中によりどのように振る舞っているかをみることで、さらに感情を刺激する手法としても実践されている。

ゲームブックは乱数の要素においてゲームである

2つ目、アドベンチャーゲームブック(以下ゲームブック)について考える。ゲームブックはゲームなのか。これはイエス、ゲームだと思う。それでは、ノベルゲームがゲームではなくて、ゲームブックがゲームなのは何故か。理由は、ハイパーテキスト如何に関わらず、パラメータや乱数に関連した判断を多分に迫るからである。ゲームブックは紙媒体で記述された情報がプレイヤーに閲覧可能であり、採用したシステムは本来GMが行う処理をプレイヤーに任せただけである。したがって、結末がある程度変化する洋PCゲーと本質的に変わらない。ゲームブックのゲーム性は、積極的に乱数を用いた意志決定を行う点において保証される。分岐可能性は既にゲームの規範となる本、データベースに全て記述されている点において、ノベルゲームと同じく、作品の厚みを一定レベル、プレイヤーに保証する手法でしかない。

僕は以上の考えを持って、ハイパーテキストへの関心を焼き直し、ノベルゲームの非ゲーム性とゲームブックのゲーム性を定義する。

ノベルゲームの分解

上記で考えたノベルゲームは、およそ美少女ノベルゲームなど一般的に流通するものとそれに属するシステムを有するもので、細分化した事例について考えていない。例えば推理ものはどうだろうか。簡単な記憶ゲームを含むものはどうだろうか。それぞれについて例を挙げるのも良いが、多くのノベルゲームは次の考え方で説明ができる。それは、和製の分岐のないRPGで能動的に操作してイベントを見つけるパートが、幾分簡単になってテキストベースで提供されているだけであり、ノベルゲームのゲーム的な要素は、全てノベルゲームの外で説明が可能であることだ。推理ノベルゲームも、その規模と作中で行う推論がおよそ一つ(ここでは仮定する)であるから、推理とノベルゲームが一対一で結びつき、推理ノベルゲームという特定のゲームジャンルに見えなくもない。しかしそれはノベルゲームであるから実現できる特有のものではなくて、書店で売っている推理ゲームブックや楽しく遊べる論理の本と本質的に変わらない。推理ノベルゲームでは、ゲームと言えるのは推理を楽しめる部分であり、デジタルノベルでは新たな表現方法を提供するだけにとどまる。

Wizardryはゲームである。それに似たシステムのフリーゲーム、例えばBabelもゲームである。無料であることでゲームにならない理由はない。NScripterで作られたWizardry風のゲームも勿論ゲームである。ノベル向きのゲームを作るためのツールで作られたWizardryのシステムではゲームにならないとは決して言えない(余談だが、年齢制限のかかったゲームでNScripterで作られた一押しのWizardryシステムのゲームがある。タイトルは「チープダンジョン」、日本人好みの難易度設定でもあるので、気になった18歳以上の方は是非プレイして欲しい)。それでは、吉里吉里で作られたノベルゲーム、kinoko3のある話でWizerdryと同じようなダンジョン探索パートが用意されているが、これのみによってkinoko3はゲームであると言えるだろうか。ゲームではないだろう。例えば、小説の中で、次の数式を(パズル感覚で)解いて欲しい、と要求される。解けなかった場合、以後、作中の重要な話がわからないとする。その場合は解けることで小説はゲームとなるかどうかだ。僕はこれはゲームではないと考える。なぜならば、全体の中で重要なのは数式ではなく、小説そのもので、小説の新しい表現方法として数式を用いたと考えるからである。また、コスティキャンのゲーム論でもパズル自体がゲームでないと考えている。

以上から、ノベルゲームは作中にゲームの要素を盛り込むことで、あたかもゲームのように振る舞うと言えるだろう。

ゲームの再定義

コスティキャンのゲーム論の考察と、ノベルゲームはコスティキャンのゲーム論のゲームに属するかの考察で、今までのゲーム観を少なからず変えていく結果となった。概念的に少し複雑になったので、ここで今までの考えをまとめよう。

広義のゲーム

まず、貴方がゲームを知るライトユーザーの目の前で、ゲームを遊んだとしよう。十中八九、何のゲームなのかを聞いてくるだろう。なぜならば、貴方が遊んでいるように見えるそれが経験からゲームであると予測した(アポステリオリである)からだ。次に、先ほどの考察から、貴方はノベルゲームはゲームではないという見解に達したとしよう。ライトユーザーには小説に見えるかも知れないが、ディスプレイにアニメ絵があって、テイルズシリーズやFFを連想してゲームだと判断する人もいるだろう。このとき、見解に応じてゲーム、非ゲームの線引きが行われる。至極当たり前のことだが、広義のゲームとは漠然とした、以上のようなものである。

僕は何が広義のゲームであるかの判断は、2つ目の参考記事の様に、「判断を楽しむために作られたもの」であるかどうかが適当であると思う。この線引きは、参考元で書かれているとおり、非常に便利であらゆる現象がこれで説明でき、また、人それぞれであるからだ。また、CGameでは特にインタラクティブ性が重要視される。しかし、厳密に定義されていない不定形のゲームは、若干の問題を持つ。それはゲームと芸術についてであるが、その考察は後ろに回す。次に、このゲームをさらに分類する。

純ゲーム

真にゲームと呼べるものは、コスティキャンのゲーム論と、それを拡張して定義しなおしたゲーム観である。これを純ゲームと定義する。純ゲームの定義はシステマティックであることで、ゲームの芯、ゲームがゲーム足る要素をぶらさずに思考することが可能になるからである。勘違いしてはいけないのは、これは決してヒエラルキーな目的、純ゲームと定義することで他のゲームを格下だと見なすための定義では無い事である。ゲームの遊び手にとって真に重要なのは、「判断が楽しめたか」である。

ゲーム的創作物

次はゲームと中核となる純ゲーム、ゲームと純ゲームの空白を覆う上位概念である。ゲームのように振る舞うなにかをゲーム的創作物と定義する。ゲーム的創作物はゲームである場合がある。しかし、純ゲームではない。また、ゲーム的創作物はゲームの概念からも外れる場合もある。

純ゲームとゲーム的創作物を厳密に分けることはできない。全ては割合によって語られる。ノベルゲームに戻って『kinoko3』を例に説明する。『kinoko3』はそれぞれで完結した純ゲーム(例えば、トロッコ、ダンジョン探索、記憶ゲーム)をミニゲームとして要素化していると同時に、シナリオと高度に融和した戦闘ゲームを持つゲーム的創作物、ノベルゲームであると言える。長ったらしいがおよそ正しい表現だと思われる。次にミニゲームが含まれるノベルゲーム、例えば『リトルバスターズ!』について考える。『リトルバスターズ!』は、それぞれで完結した純ゲーム(注文に応えるミニゲームが作中にある)をミニゲームとして要素化している、また、シナリオ分岐を用いることで世界をより重厚に見せるノベルゲーム、ゲーム的創作物であると言えるだろう。

更に、ゲーム的創作物は2つの概念に分けることができる。疑似ゲームとゲーム的遊戯である。ここまで5つの概念を定義した。ゲーム、純ゲーム、ゲーム的創作物、疑似ゲーム、ゲーム的遊技である。もういい加減ややこしいので、図示したのが次に示す集合図である。
図1.5つの概念:ゲーム、純ゲーム、ゲーム的創作物、疑似ゲーム、ゲーム的遊戯

疑似ゲーム

疑似ゲームとは、ゲームではないのにプレイヤーがゲームと錯覚しながら遊んでいるものである。この疑似ゲームは、あるゲーム群が一定のジャンルとして認められた後、それによく似た創作物が出現した時にその創作物が疑似ゲームであるといえる。

例えばノベルゲームは分岐を持つ点において広義のゲーム(ゲームに含まれるゲーム的創作物)であるが、フリーゲームでは分岐を持たない一本道の作品は、広義のゲームに含まれる要素を持たない。最近のフリーゲームで言えば『キナナキノ森』、商用であれば分岐無しとして販売された初の作品の『鬼哭街』等がある。これらは完全にヴィジュアルノベルであり、疑似ゲームである。

クイズゲームも、立ち位置はノベルゲームと同じく広義のゲームである。wikipediaでは「基本的には「クイズの問題が出題され、プレイヤーがそれに解答していくことで進行するタイプのゲーム」」と書かれており、これはクイズの集合体と進行のみでゲームだとしている。2行目の解説では「教育用の漢字・計算ゲーム・パズルなどもクイズゲームの一種として扱われることがある」、計算ゲームとパズルの詰め合わせであれば、疑似ゲームと言えるだろう。

ゲーム的遊戯

ゲーム的遊戯とは、ストレスなどをゲームに似た手段で解消できる遊びのことである。ある種のギャンブルなどがこれにあたる。図に示すとおり、ゲームの範疇からは外れている為にフリーゲームで例を挙げることができない。元がゲームではなかったものがゲームの枠に接近した遊戯や、その他の位置付けである。

ゲーム的遊戯と疑似ゲームが被るかどうかはまだ未考察である。仮に、芸術がゲームとして語られるときは、本考察時では、このゲーム的遊戯の枠に含まれるか、ここの拡張で説明が可能ではないかと考えている。

以上をもって、ゲームの定義を完了する。

結論と本着想の理由

今回、ゲームの定義をコスティキャンのゲーム論をベースにした理由は、後半で書いたとおり、それの論法が具体的であったからである。コスティキャンのゲーム論自体では、執筆時期以前に発売されたゲームから演繹的に行っているのもあり、数値化しにくいゲームには不適当な論法である。また、全ては要素の割合であると手短に説明したために、かえってゲームをゲームとそれ以外の二元的な枠組みで捉えようとする意図が見え、そこが欠点だった。これらの点は意識的に改良を図ったが、依然コスティキャンの弱さは、僕の定義の弱さに繋がっているだろう。

実は、最初本考察は、ゲームと芸術についての考察となる予定だった。ゲーム論を経た上で、その本分を理解し芸術との線引きを計ることが可能だと思ったからだ。しかし、もう少し上手に書けるように思えたし、内容にも不満が残ったので、それを切り捨ててゲーム論(1.ゲームの定義)としている。

この論法は、制作者、プレイヤー双方に取ってメリットがあるだろうと踏んでいる。その考えは、ゲーム、芸術の結論とも近しい内容になるが、本考察でもきわめて重要な決めの部分であるので書いておかなければいけない。

このゲームの定義は、ゲームとして目指すべき規範を明確にできる点において、他の短く心に残りやすいゲーム論よりも優れている。ゲームは制作規模も大きく、創作行為の中でも比較的時間を要するものである。制作者は全てプロではないし、言葉通り1を聞いて10を想像して制作に当たれる人もごく少数だろう。インパクトあるフレーズだけでは、ゲームの細部までを決めることは出来ないし、ゲームを作るときは仕様書を用いてロジカルに進めていくのは自明である。したがって、ゲームデザイナー、プランナークラスにおいては、有名な同職の人たちの言葉から考えるのも十分な手だが、その他大多数に取って必要なのは、時にはゲーム制作においてタブーを知ることであったり、どのようなプレイヤーを意識しているか等の、仕様書、教科書的なものなのである。

これは多くのフリーゲーム制作者にとっても同じだと考えられる。立場上ではゲームデザイナーでありプランナーも兼ねているだろうが、使用ツールや技術的に可能なプログラムの理解無しに、ゲームを作ることが無謀であるように、ゲームについての規範を知らずにゲーム制作に当たるのも無謀であると考えるのは自然だろう。そうでなくても、様々な展開であらゆるゲーム観が語られている中、自分の立ち位置を見極めて制作に当たることは非常に難しいと思われる。最終的な判断は作り手自身に委ねられていることを念頭に置いた上で、自分が取り組もうとしている事に対して知識はいくらあっても良いだろう。

プレイヤーにとっても、本考察に納得いただければ不要なジャンル分け等を行う必要もなくなるだろう。『ゆめにっき』は芸術かゲームかの話題についても、延長線上で語ることが出来ると思われる。これは次回以降の考察で詳しく行う可能性があるが、僕は『ゆめにっき』はゲームではなくエンターテイメント(ゲーム的創作物)だと考えている。

以上の点から考えて、オリジナリティはいつでも発揮が出来る訳なのだから、先に自分を縛る規範こそが必要なのだと僕は考えを表明した上で、本考察の筆を置くこととする。

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