フリーゲーム論─ゲーム論(1.ゲームの定義)─
文章の規模が大きくなりすぎたので、多少でも読みやすいように目次とその説明を書いておきます。もしタイトルに興味があるのであれば、このまま読み進めていってください。
注意!ページ内リンク
- はじめに
- 簡単な文章の内容の説明と前提、参考文献
- 1章:CGameは全てゲームなのか
- ゲームを定義する際の導入部
- コスティキャンのゲーム論が定義するゲームと、その修正
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- 意志決定と目標――必須要素
- 意志決定の解説
- 障害物――必須要素
- 障害物の解説
- 資源管理――ゲームのアクセント
- 資源管理の解説と修正
- ゲームトークン――必須要素
- ゲームトークンの解説
- 情報――ゲームのアクセント
- 情報の解説と修正
- ゲーム論の修正後
- 修正を踏まえたまとめ
- コスティキャンがゲームに求めるストーリー論と、その修正
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- コスティキャンのストーリー論
- ノベルゲームがゲームに属する視点
- 物語は事後に語られる視点からのストーリー論
- TRPG主体であるが、第二のストーリー観
- コスティキャンのストーリー論に対する反論
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- ノベルゲームはゲームではない
- 反証
- ゲームブックは乱数の要素においてゲームである
- 作品の軸の変更
- ノベルゲームの分解
- 上記二つを踏まえた考察
- ゲームの再定義
- 結論と本着想の理由
- 定義を経て、所感
はじめに
フリーゲームを考えていく最中で、そもそもゲームというものは何か、という壁に当たりました。僕達が受けてきたであろう経験では、コンピュータで行うコミュニケーションのみ以外のインタラクティブな娯楽要素が、多くの場面においてゲームである、として認識されてきたと考えています。重要視したいのは、厳密な意味でゲーム、非ゲームと呼ばれたとしても、あなたが母親、ゲームに対して無理解の人の目の前でプレイしたときに、ゲームとみなされる可能性が多分にあるのはなぜか、です。
ゲームを知る人、知らない人、ゲームについて独自の見識を持つ人、それぞれがどこから何処までがゲームであるかばらばらです。また、その理由も共通でないものです。僕は曖昧なゲーム観で各々がゲームをくくろうとするよりは、一度教科書的なゲームの枠組みを定義する必要があるのではないかと考えました。ベースはコスティキャンのゲーム論を用います。
今回、ゲームはコンピュータゲーム(以下CGame)、デジタルで遊ばれる フリーゲーム、商用ゲームを中心に考えます。ゲームブック、カード、ボードゲーム(ノベルゲームやWebブラウザのゲーム「汝は人狼なりや」、カタン等)はCGameの近似した作品で説明が可能です。ただし、洗練された分野であるTRPG等を含めると、ゲームとして考えていかなければいけない範囲が大きくなりすぎます。
CGameは万能ではなく、苦手な分野はちょうどTRPGのように、複数で動的に物語を構成するゲームです。TRPGはその場の雰囲気が重要であり、CGameで同じような環境を整えるには、最低でもWebカメラでお互いの表情を認識させ、環境に左右されることなくスムーズな会話を行う必要があります。ただし現状のCGameでは実現されていません。したがってTRPGが再現可能な範囲は、特に動的な物語の構成部分においてCGameを上回り、この点からCGameに内包されるフリーゲームを考えるのは望ましくありません。またCGameでは実現されていない概念を理解する必要があるために、TRPGは特殊な文脈を除いて含めないものとします。
今回はコスティキャンのゲーム論とそれに対して主に批判的な内容で書かれているhikaliの開発日誌 | コスティキャンのゲーム論を読んでみる → あれ、あんまり問題ないかな?の追記以前を参考にしました。ただし、TRPG主体な考察もありますので、その点を差し引いて考慮して考えていきます。後半でノベルゲームについての考察を行いますが、その際にはAnalyses on Novel Gamesを参考にしました。
1章:CGameは全てゲームなのか
ここでは最初に参考記事として示した、コスティキャンのゲーム論と批判的な内容を持つもの合わせて2つを参考にする。全部読んでもらえれば幸いだが、コスティキャンのゲーム論は簡単に言って次のようなものである。コスティキャンのゲーム論は、どちらかといえばコンピュータゲームの視点から、TRPGやその他を説明したものである。公表媒体もあって、TRPGに独自の拡張を加えて説明の質を上げているが、その範囲をカバーし切れていない(その点の考察は2つ目の参考記事の中盤、ストーリーのあり方についてが参考になる)。また、現代のゲームを完全に説明することが出来ない欠点を持つ。
しかし、本記事ではTRPGはCGameから考えるゲームの範囲外にあるために関心を寄せないとしているので問題は無いだろう。次にコスティキャンのゲーム論を簡単に分解しよう。
コスティキャンのゲーム論が定義するゲームと、その修正
それではコスティキャンのゲーム論中に書かれた、ゲームに必要な要素についての解説を行う。その際に原文に当たらずに済むように、なるべく本記事内で説明するので、疑問がわかなければこのまま読みすすめていってかまわない。
コスティキャンがゲームとして定義するにあたり、次のように発言している。
それで「ゲーム」とは結局のところ何なのか?
ゲームとは、芸術の一形態であり、プレーヤーと呼ばれる参加者が目標達成を目指して、ゲームトークンを介して資源管理のため意志決定するものである。
以上の定義に伴って必要な要素は次の6項目であり、それぞれは等価ではない。
- 意志決定
- 目標
- 障害物
- 資源管理
- ゲームトークン
- 情報
意志決定と目標――必須要素
意思決定は全ての要であり、その他5つは意思決定を彩るための要素である。人は意思決定が楽しめれば十分に"遊べる"わけである(遊べない意思決定は仕事と言い換えてもいいのではないだろうか)。パターンを見出すまで楽しめたマルバツゲームを思い出してもらえればいいだろう。ただし、意思決定を煽るなにかがゲームになるためには、コスティキャンの論では目標が必要である。マルバツにせよ、将棋にせよ、相手に勝利するという目標を目指して、意思決定をすることでそれは初めてゲームとなる。
コスティキャンは製作者であるウィル・ライトと同じく、『シムシティ』はゲームではないとしている。それはシムシティから与えられる明確な目標がないためであり、この点においてシムシティは遊びの可能性を提供する玩具、球技のためのボールでしかない。詳しく知りたい方は「「ゲーム」は、玩具ではない」の項目を参照されたい。
障害物――必須要素
障害物については多分想像されている通りである。コスティキャンが強調しているのは、「ゲームにとって本質的に重要なのは「敵対」ではなく、目標に向かっての「努力」」であり、障害物は何らかの判断をプレイヤーに迫ることで、ゲームに不可欠な要素となる。加えて、ある程度のランダム性が意思決定の際の障害となりえる点も押える必要がある。
資源管理――ゲームのアクセント
資源管理について、2つ目の記事を参照された場合は注意しなければいけない。資源管理はあくまでも状況の一要素である点だ。例えば、将棋、囲碁ではコスティキャンの考える資源管理は無い。しかし、資源管理はゲームに必須ではなく、あくまでも「複雑な意思決定を保障する」ための指標である。この「複雑な意思決定を保障する」とは、一般的なユーザのレベルにおいて、と注釈をつける必要があるだろう。あなたの想像するいくつかのパラメータを用いるゲームについて、全ての数値が隠されていた場合はどうだろうか。魔法が使えるかどうかの確認に1ターン費やしたり、回復のタイミングが図れないかもしれないし、どれだけ内政を整えた後に攻撃へと転じればよいかもわからない。資源管理をユーザに強いるもしくは機会を与えるということ、資源の目的は、決定すべき事項を明確にするための要素だ。
もちろんこの資源管理は適当に行わせる必要がある。ノベルゲームでの分岐をわかりやすく示すならそれは攻略志向のUI(ユーザインターフェース)であるし、不要だと表示しないのであれば、画面が煩雑にならないで済むだろう。将棋や囲碁は、資源管理の機会を与えないために、多くのユーザは決定すべき事項がわからずに敗北する。念を押すが、資源管理はユーザが楽しむ機会を増やすための上げ底のシステムであることと、パラメータとして用いることで、ゲームのルールを厳密に適用させやすくする概念である。
ゲームトークン――必須要素
ゲームトークンはパラメータではなく、資源を管理するための手段である。例えばRPGのキャラクタが所持品を消費、STGでストックされたボムを使用することで効果を得ることを指す。大抵の場合はプレイヤーと密接に絡み合っているために、区別がつきにくいかもしれない。ゲームトークンは将棋、囲碁に存在する。駒、碁石であり、そして進行は駒、碁石の適切な操作一回を交互に行う一連の時間的変化を指す。詳しく知りたい方は「ゲームトークン」の項を参照されたい。
情報――ゲームのアクセント
情報については、資源ではないがプレイヤーの行動を決定する要素になる。情報の特徴は、システムにおいて適切な量の情報を与えるべきとしている。例えば魅力的なパラメータも、全く知る機会が無かったら無視されるであろうし、重要でないパラメータを定義して、画面上に列挙するのも優れたやり方ではない、とコスティキャンは説明している。詳しく知りたい方は「情報」の項を参照されたい。
ただし情報はコスティキャンの説明では的確ではないように思える。情報は適切な量の情報を与えるべきと書かれているが、本当にそうだろうか。コスティキャンの訳文では、「情報については過剰にならないほどに、ゲームで重要な全てを示すべきだ」と書かれているがそれは間違っている。現在、この情報の理解の仕方を問われる段階から始まるゲームは、例えばアンディーメンテから何作も出ていて、受け入れられているからである。
次に、僕の考えでは情報は資源管理と似た性質を持つ。なぜならば資源管理も前段で、情報と同じく全てを示す必要は無いであろうと(もしかすると僕が拡張したかもしれないが)定義されているからだ。ここで資源管理と情報は、異なる性質を示しながらも、ゲームにおける振る舞いは同様の範囲で干渉することなく求められることが示せたはずだ。
ゲーム論の修正後
まとめると、ゲームにはルールで定義された目標に向かうための意志決定が不可欠である。ゲームトークンもルールにプレイヤーの意志を反映させるために不可欠である。障害物も目標に向かう努力を発生させ、過程に吟味するだけの複数の判断を発生させる要因となり、それは不可欠のものである。また、アクセントとして、資源管理、情報の2つがある。これらは、ゲームのあり方を決める要素であり、それぞれが無くてもゲームとなり得る。
以上でコスティキャンがゲーム足ると定義する主要要素と、それに対する注釈と修正を終える。
コスティキャンがゲームに求めるストーリー論と、その修正
僕はフリーゲームといっても、恣意的にノベルゲームを選択する嫌いがある。それは僕のフリーゲーム経験はRPGやSTGも十分に遊んでいたが、ノベルゲームのしめる割合が大きすぎたためだと思っている。だから、僕はフリーゲーム論と銘打っても時にある特定ジャンルについて言及していたり、ノベルゲームのみだったりすることがある。今回はこれを認めたうえで、ノベルゲームをよりよく考えていくために、コスティキャンがゲームに求めるストーリー論にも触れておく必要があるだろう。参照元では「「ゲーム」は、ストーリーではない」がそれにあたる。2つ目の参照元では「ストーリーとゲーム」でコスティキャンとは違った考えを示している。2つとも必要を感じることがあれば参照してもらいたい。
コスティキャンのストーリー論
コスティキャンの要点は次の2つの段落からなる。
ストーリーはもともと直線的であり、それによって最高のものとなる。直線的とは、作者(TRPG論ではないのでゲームマスターとは書かないでおこう)が計算しつくしたとおりに魅せることである。ただし、ゲームはストーリーとは異なるもので、直線的なものになる、ストーリーに近づくほどゲームとは異なるものとなる。
ハイパーテキスト(読者の選択によってプロットや結末が変わるインタラクティブ小説、アドベンチャーゲームブック)は本質的に直線的ではない。したがって、従来の小説作法はハイパーテキストを作るうえでは役に立たない。この手法で文学的な高みに達したときには、何か別のものを生み出すだろう。また、本質的に直線的で無いがゆえに、ハイパーテキストはゲームに近づく。
コスティキャンの考えでは、現在のノベルゲームはゲームとなるだけの要因を持つと見ている。また、分岐したシナリオを持たない和製RPGは等しくゲームではない、といっているに等しい。僕の視点からは、シリーズ物はゲームではなくそのグラフィックとシナリオからユーザをひきつけているように思える。映画的とも言い換えられるだろう。
物語は事後に語られる視点からのストーリー論
2つ目の参照元ではどのように考えているのだろうか。結論を先に言うと、こちらはTRPG主体で、主張する概念は他の媒体においては達成できていない。しかし十分に考慮するだけの魅力があるので簡単に説明する。ゲームのストーリーを考えるにあたり、このストーリー観が参考になるからだ。
まず最初に氏の定義を示す。
ゲームトークンの初期配置+事後的に開示される情報+事後に登場するゲームトークン =シナリオ
シナリオをプレイした結果生まれるもの = 物語
ここでの物語はストーリーを指す。ストーリーの概念がコスティキャンと異なる。ストーリーは道のりから発生するものであって、最初から予想されたとおりのものではない、ということである。もちろんこれは、先にストーリーの書かれた小説では不可能な話である。ストーリーはリアルタイムで展開された結果であることをうかがわせる。
また、コスティキャンのハイパーテキストに寄せる期待とは事なり、初期値に応じて物語が自立的に発展するのではないか、と氏は考えている。コスティキャンが最も美しいストーリーを計算され尽くしたもの、と考えているのに対し、こちらは予想外のことが起きて最も美しくなる可能性を持つ、と考えている。
コスティキャンのストーリー論に対する反論
さて、ここからがノベルゲームについての本題。コスティキャンと3つ目の参考記事「Analyses on Novel Games」について考える。ノベルゲームは、"ノベルゲーム"としてジャンルを確立していることは認められるが、果たしてそれは本当にゲームなのだろうか。
再度書くことはしないが、コスティキャンはノベルゲームがハイパーテキストによってゲームであることを示唆している。前提が正しい限りにおいてはそうなのだが、僕はコスティキャンの次の考えが、2つほど誤っているように思える。1つは、「ハイパーテキストは本質的に直線的でない」の部分である。コスティキャンは上の言葉のみで、どのような考えに基づいて、本質的に直接的でないかを示していない。2つは、アドベンチャーゲームブックはハイパーテキストであり、それが故にゲーム的である、と書いている。
ノベルゲームはゲームではない
1つ目について考える。「ハイパーテキストは本質的に直線的でない」と言うことは、訳文の文脈では、「作者が効果を計算した上で、全てが予定通りに行われるわけではない」ことで「意志決定を行い、それを反映できるだけの可能性を持ったテキスト」であり、それは同時に「従来のテキストと事なり多元である」ことを示す。コスティキャンは、自分で定義した前提の1番目、「作者が効果を計算した上で、全てが予定通りに行われるわけではない」を忘れている。如何にシナリオが分岐しようが、はじめに作者が記述した文章をなぞっていく事は、そのストーリーごとにおいて直線的である。意志決定は全て作者が用意した選択肢の中から、好みであるものを判断することであり、それはTRPGでGM(ゲームマスター)がプレイヤーに選択を迫るプロセスとは似て異なる。
現状のノベルゲームとは、提供された全ての選択肢は枯れた植物の根と同じであり、自立的に発展することはもはや無い。「ハイパーテキストは本質的に直線的でない」のに対し、「ノベルゲームは擬似的に可能性(直線的でないような振る舞い)を装う」だけであり、ノベルゲームはコスティキャンの論において、ゲームとは言い難いだろう。
むしろノベルゲームは、作品をプレイヤーに見せるための一つの手法であると考えられる。本来、小説では可能性を分岐的に示すことはできない。しかし、選択肢を加えることで、世界観、キャラクタをより重厚に表現したり、それぞれのシナリオの整合性を取らせないことで今までにない表現を行うことができる。また、泣きゲーと呼ばれるKey作品などは、攻略後のヒロインが別のヒロイン攻略中によりどのように振る舞っているかをみることで、さらに感情を刺激する手法としても実践されている。
ゲームブックは乱数の要素においてゲームである
2つ目、アドベンチャーゲームブック(以下ゲームブック)について考える。ゲームブックはゲームなのか。これはイエス、ゲームだと思う。それでは、ノベルゲームがゲームではなくて、ゲームブックがゲームなのは何故か。理由は、ハイパーテキスト如何に関わらず、パラメータや乱数に関連した判断を多分に迫るからである。ゲームブックは紙媒体で記述された情報がプレイヤーに閲覧可能であり、採用したシステムは本来GMが行う処理をプレイヤーに任せただけである。したがって、結末がある程度変化する洋PCゲーと本質的に変わらない。ゲームブックのゲーム性は、積極的に乱数を用いた意志決定を行う点において保証される。分岐可能性は既にゲームの規範となる本、データベースに全て記述されている点において、ノベルゲームと同じく、作品の厚みを一定レベル、プレイヤーに保証する手法でしかない。
僕は以上の考えを持って、ハイパーテキストへの関心を焼き直し、ノベルゲームの非ゲーム性とゲームブックのゲーム性を定義する。
ノベルゲームの分解
上記で考えたノベルゲームは、およそ美少女ノベルゲームなど一般的に流通するものとそれに属するシステムを有するもので、細分化した事例について考えていない。例えば推理ものはどうだろうか。簡単な記憶ゲームを含むものはどうだろうか。それぞれについて例を挙げるのも良いが、多くのノベルゲームは次の考え方で説明ができる。それは、和製の分岐のないRPGで能動的に操作してイベントを見つけるパートが、幾分簡単になってテキストベースで提供されているだけであり、ノベルゲームのゲーム的な要素は、全てノベルゲームの外で説明が可能であることだ。推理ノベルゲームも、その規模と作中で行う推論がおよそ一つ(ここでは仮定する)であるから、推理とノベルゲームが一対一で結びつき、推理ノベルゲームという特定のゲームジャンルに見えなくもない。しかしそれはノベルゲームであるから実現できる特有のものではなくて、書店で売っている推理ゲームブックや楽しく遊べる論理の本と本質的に変わらない。推理ノベルゲームでは、ゲームと言えるのは推理を楽しめる部分であり、デジタルノベルでは新たな表現方法を提供するだけにとどまる。
Wizardryはゲームである。それに似たシステムのフリーゲーム、例えばBabelもゲームである。無料であることでゲームにならない理由はない。NScripterで作られたWizardry風のゲームも勿論ゲームである。ノベル向きのゲームを作るためのツールで作られたWizardryのシステムではゲームにならないとは決して言えない(余談だが、年齢制限のかかったゲームでNScripterで作られた一押しのWizardryシステムのゲームがある。タイトルは「チープダンジョン」、日本人好みの難易度設定でもあるので、気になった18歳以上の方は是非プレイして欲しい)。それでは、吉里吉里で作られたノベルゲーム、kinoko3のある話でWizerdryと同じようなダンジョン探索パートが用意されているが、これのみによってkinoko3はゲームであると言えるだろうか。ゲームではないだろう。例えば、小説の中で、次の数式を(パズル感覚で)解いて欲しい、と要求される。解けなかった場合、以後、作中の重要な話がわからないとする。その場合は解けることで小説はゲームとなるかどうかだ。僕はこれはゲームではないと考える。なぜならば、全体の中で重要なのは数式ではなく、小説そのもので、小説の新しい表現方法として数式を用いたと考えるからである。また、コスティキャンのゲーム論でもパズル自体がゲームでないと考えている。
以上から、ノベルゲームは作中にゲームの要素を盛り込むことで、あたかもゲームのように振る舞うと言えるだろう。
ゲームの再定義
コスティキャンのゲーム論の考察と、ノベルゲームはコスティキャンのゲーム論のゲームに属するかの考察で、今までのゲーム観を少なからず変えていく結果となった。概念的に少し複雑になったので、ここで今までの考えをまとめよう。
広義のゲーム
まず、貴方がゲームを知るライトユーザーの目の前で、ゲームを遊んだとしよう。十中八九、何のゲームなのかを聞いてくるだろう。なぜならば、貴方が遊んでいるように見えるそれが経験からゲームであると予測した(アポステリオリである)からだ。次に、先ほどの考察から、貴方はノベルゲームはゲームではないという見解に達したとしよう。ライトユーザーには小説に見えるかも知れないが、ディスプレイにアニメ絵があって、テイルズシリーズやFFを連想してゲームだと判断する人もいるだろう。このとき、見解に応じてゲーム、非ゲームの線引きが行われる。至極当たり前のことだが、広義のゲームとは漠然とした、以上のようなものである。
僕は何が広義のゲームであるかの判断は、2つ目の参考記事の様に、「判断を楽しむために作られたもの」であるかどうかが適当であると思う。この線引きは、参考元で書かれているとおり、非常に便利であらゆる現象がこれで説明でき、また、人それぞれであるからだ。また、CGameでは特にインタラクティブ性が重要視される。しかし、厳密に定義されていない不定形のゲームは、若干の問題を持つ。それはゲームと芸術についてであるが、その考察は後ろに回す。次に、このゲームをさらに分類する。
純ゲーム
真にゲームと呼べるものは、コスティキャンのゲーム論と、それを拡張して定義しなおしたゲーム観である。これを純ゲームと定義する。純ゲームの定義はシステマティックであることで、ゲームの芯、ゲームがゲーム足る要素をぶらさずに思考することが可能になるからである。勘違いしてはいけないのは、これは決してヒエラルキーな目的、純ゲームと定義することで他のゲームを格下だと見なすための定義では無い事である。ゲームの遊び手にとって真に重要なのは、「判断が楽しめたか」である。
ゲーム的創作物
次はゲームと中核となる純ゲーム、ゲームと純ゲームの空白を覆う上位概念である。ゲームのように振る舞うなにかをゲーム的創作物と定義する。ゲーム的創作物はゲームである場合がある。しかし、純ゲームではない。また、ゲーム的創作物はゲームの概念からも外れる場合もある。
純ゲームとゲーム的創作物を厳密に分けることはできない。全ては割合によって語られる。ノベルゲームに戻って『kinoko3』を例に説明する。『kinoko3』はそれぞれで完結した純ゲーム(例えば、トロッコ、ダンジョン探索、記憶ゲーム)をミニゲームとして要素化していると同時に、シナリオと高度に融和した戦闘ゲームを持つゲーム的創作物、ノベルゲームであると言える。長ったらしいがおよそ正しい表現だと思われる。次にミニゲームが含まれるノベルゲーム、例えば『リトルバスターズ!』について考える。『リトルバスターズ!』は、それぞれで完結した純ゲーム(注文に応えるミニゲームが作中にある)をミニゲームとして要素化している、また、シナリオ分岐を用いることで世界をより重厚に見せるノベルゲーム、ゲーム的創作物であると言えるだろう。
更に、ゲーム的創作物は2つの概念に分けることができる。疑似ゲームとゲーム的遊戯である。ここまで5つの概念を定義した。ゲーム、純ゲーム、ゲーム的創作物、疑似ゲーム、ゲーム的遊技である。もういい加減ややこしいので、図示したのが次に示す集合図である。
疑似ゲーム
疑似ゲームとは、ゲームではないのにプレイヤーがゲームと錯覚しながら遊んでいるものである。この疑似ゲームは、あるゲーム群が一定のジャンルとして認められた後、それによく似た創作物が出現した時にその創作物が疑似ゲームであるといえる。
例えばノベルゲームは分岐を持つ点において広義のゲーム(ゲームに含まれるゲーム的創作物)であるが、フリーゲームでは分岐を持たない一本道の作品は、広義のゲームに含まれる要素を持たない。最近のフリーゲームで言えば『キナナキノ森』、商用であれば分岐無しとして販売された初の作品の『鬼哭街』等がある。これらは完全にヴィジュアルノベルであり、疑似ゲームである。
クイズゲームも、立ち位置はノベルゲームと同じく広義のゲームである。wikipediaでは「基本的には「クイズの問題が出題され、プレイヤーがそれに解答していくことで進行するタイプのゲーム」」と書かれており、これはクイズの集合体と進行のみでゲームだとしている。2行目の解説では「教育用の漢字・計算ゲーム・パズルなどもクイズゲームの一種として扱われることがある」、計算ゲームとパズルの詰め合わせであれば、疑似ゲームと言えるだろう。
ゲーム的遊戯
ゲーム的遊戯とは、ストレスなどをゲームに似た手段で解消できる遊びのことである。ある種のギャンブルなどがこれにあたる。図に示すとおり、ゲームの範疇からは外れている為にフリーゲームで例を挙げることができない。元がゲームではなかったものがゲームの枠に接近した遊戯や、その他の位置付けである。
ゲーム的遊戯と疑似ゲームが被るかどうかはまだ未考察である。仮に、芸術がゲームとして語られるときは、本考察時では、このゲーム的遊戯の枠に含まれるか、ここの拡張で説明が可能ではないかと考えている。
以上をもって、ゲームの定義を完了する。
結論と本着想の理由
今回、ゲームの定義をコスティキャンのゲーム論をベースにした理由は、後半で書いたとおり、それの論法が具体的であったからである。コスティキャンのゲーム論自体では、執筆時期以前に発売されたゲームから演繹的に行っているのもあり、数値化しにくいゲームには不適当な論法である。また、全ては要素の割合であると手短に説明したために、かえってゲームをゲームとそれ以外の二元的な枠組みで捉えようとする意図が見え、そこが欠点だった。これらの点は意識的に改良を図ったが、依然コスティキャンの弱さは、僕の定義の弱さに繋がっているだろう。
実は、最初本考察は、ゲームと芸術についての考察となる予定だった。ゲーム論を経た上で、その本分を理解し芸術との線引きを計ることが可能だと思ったからだ。しかし、もう少し上手に書けるように思えたし、内容にも不満が残ったので、それを切り捨ててゲーム論(1.ゲームの定義)としている。
この論法は、制作者、プレイヤー双方に取ってメリットがあるだろうと踏んでいる。その考えは、ゲーム、芸術の結論とも近しい内容になるが、本考察でもきわめて重要な決めの部分であるので書いておかなければいけない。
このゲームの定義は、ゲームとして目指すべき規範を明確にできる点において、他の短く心に残りやすいゲーム論よりも優れている。ゲームは制作規模も大きく、創作行為の中でも比較的時間を要するものである。制作者は全てプロではないし、言葉通り1を聞いて10を想像して制作に当たれる人もごく少数だろう。インパクトあるフレーズだけでは、ゲームの細部までを決めることは出来ないし、ゲームを作るときは仕様書を用いてロジカルに進めていくのは自明である。したがって、ゲームデザイナー、プランナークラスにおいては、有名な同職の人たちの言葉から考えるのも十分な手だが、その他大多数に取って必要なのは、時にはゲーム制作においてタブーを知ることであったり、どのようなプレイヤーを意識しているか等の、仕様書、教科書的なものなのである。
これは多くのフリーゲーム制作者にとっても同じだと考えられる。立場上ではゲームデザイナーでありプランナーも兼ねているだろうが、使用ツールや技術的に可能なプログラムの理解無しに、ゲームを作ることが無謀であるように、ゲームについての規範を知らずにゲーム制作に当たるのも無謀であると考えるのは自然だろう。そうでなくても、様々な展開であらゆるゲーム観が語られている中、自分の立ち位置を見極めて制作に当たることは非常に難しいと思われる。最終的な判断は作り手自身に委ねられていることを念頭に置いた上で、自分が取り組もうとしている事に対して知識はいくらあっても良いだろう。
プレイヤーにとっても、本考察に納得いただければ不要なジャンル分け等を行う必要もなくなるだろう。『ゆめにっき』は芸術かゲームかの話題についても、延長線上で語ることが出来ると思われる。これは次回以降の考察で詳しく行う可能性があるが、僕は『ゆめにっき』はゲームではなくエンターテイメント(ゲーム的創作物)だと考えている。
以上の点から考えて、オリジナリティはいつでも発揮が出来る訳なのだから、先に自分を縛る規範こそが必要なのだと僕は考えを表明した上で、本考察の筆を置くこととする。
